
先月下旬に「聖地巡礼の旅」と称して、九頭竜川へサクラマス釣りに行ってきました。(釣り堀ツアラー旅日誌、参照下さい)
フライフィッシングでのサクラマス釣りは簡単に釣れません。
キャスティング、フライタイイング、流れの読み、ライン、等々の複雑な要素があって、これらがある程度できてないと釣りが成立しないし、これらが完璧にできていたにせよ、巡り合わせという一番重要なファクターがあって、巡り合わせが悪いと、どんなに凄腕なフライフィッシャーでも、絶対に釣れないのであります。
これはいわば「絶望的な釣り」ともいえる釣りでありまして、一部の自虐的フライフィッシャーは、この「絶望的な釣り」にのめり込むのであります。←バカオヤジだろ。
この「絶望的な釣り」は、釣れないのが当たり前であります。
釣れないのなら、さぞつまらんだろうとお思いでしょうけど、さにあらず。釣れないけどいつか釣れるだろうドキドキ感がたまらんのであります。
そのドキドキ感だけで満足してしまう釣り堀オヤジであります。
釣れないのが当たり前の釣りって、なんだろう?これって、キャスティング練習か?
ちゃんと対象魚があって、釣れるだろうと思えるフライをつけて釣っている。釣りはしているわけですから、練習ではないと思う。ただ魚が釣れないだけ。なんだろうね、この類の釣りって。
この頃、へたに魚が釣れると困惑したりして…。リリースするにしても、食べるにしても、どこか罪悪感がつきまといます。
なぜって、本当に必要だからから釣りをするのではなく、釣りを楽しみたいから釣りをするからであります。これを極端な言い方をすると、「魚イジメを楽しみたいので、釣りをする」になります。というのは、いかにも自己否定的な考え方でありますね。そこまで極端なことを言うと、釣りができなくなっちゃうので、言わない方がいいですね。
人間生きていくには、どうしても他の生命に迷惑をかけねばなりませんのでね。そういった否定的な言い方をすれば、本日から御飯が食べられなくなります。
釣りという、命を弄ぶ行為を肯定するに納得できる言い訳を考えつくことは、非常に難しいと思います。だいたい命どうのこうのと考え始めたら、釣りはできません。釣りどころか、先に述べた通り、飯も喰えなくなります。
理屈をこねくりまわすのはやめにします。私の直感は釣りそのものを微塵も否定しておりません。
釣りが罪な行為であるなら、キリストさん、マホメッドさん、モーゼさん、お釈迦さん、孔子、日蓮、親鸞、等々の過去の偉い人の誰かが、釣りを否定してると思うんです。このような偉い人が否定しないのに、市井の釣り堀オヤジごときが、罪云々とおこがましいにも程があるってところでしょうかね。
大事なのは、「大人になったら、無益な殺生はしない」これですな。
サクラマスがフライフィッシングでコンスタントに釣れたら、きっと自慢するだろうなあ。
シーズンで複数匹釣れるフライフィッシャーになったら、「先生と呼べ」などと威張るようになるかもしれません。
先生は川へ生徒を何人もならべて“うんちく”を垂れるわけです。
「えー私がサクラマスをコンスタントに釣ることができる釣り堀オヤジであります」
「私の言うとおりにやれば必ず釣れます。釣れないのは、喜捨が足らないからです」
「サクラマス釣りは運も重要です。巡り合わせであります」
「なので、私を信ずる心が大切です」
「なに、釣れない?」
「それは信ずる心と喜捨が足らないからです」
「では、お布施を支払って、ご一緒にお題目を唱えましょう」
「南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経」
オヤジはお札を「ナンマイダー」といって数えるのであります。
そんなオヤジに私はなりたい。
先週、今週は放流しないと申しました。
でも少しだけ放流することにします。
レギュラーのみの放流であります。
上の池では、釣れない釣りをお楽しみ下さい。
下の池は、放流すれば釣れます。
追伸:春のイベントを考えておりましたら、タックルベリーさんの大会を当店で行いたい旨の打診をいただきました。
当店として、単独のイベントは面倒なのであります。タックルベリーさんの大会に「相乗り」というのはなんとも安直な誘惑でありますので、即答で「やりましょ」と申しました。タックルベリーさんの大会は4月13日であります。当日は貸し切りにしますので、一般のお客さまをお断りする恐れがあります。ご注意下さい。
詳細は、タックベリーさんへ、お問い合わせ下さい。
エーと、と申しましたが、当店単独のイベントをするかもしれません。
それには条件があります。
1、オヤジにサクラが咲くこと。
2、15名様以上のご要望があること。
以上いずれかが満足されれば、連休辺りに当店独自イベントを開催する恐れがありますので、連休時分には訪れない方がいいと思います。
題して「サクラ咲く」。近日詳細発表します。(ご要望が少なければやりません)乞うご期待。